「ホームレス」と呼ばれる方々の辛さとは、「家がない」ことではなく、その人が帰ることができる「ホーム」がないことです。「ホームレス」生活の中にいたある方は、夕方5時の「夕焼け小焼け」の放送が街に流れるたびに、「帰るところがある人はいいなあ」と悲しい気持ちになったと言います。「ホーム」が失われているというのは、物理的な居住場所だけでなく、その人のアイデンティティが失われているということでもあります。そういう意味で、たとえ住む場所があったとしても、社会の中に自身の「ホーム」が見いだせない多くの人々も、同じ問題を抱えていると思います。
イエス・キリストもまた、自分の生きた時代や社会の中では、自己のアイデンティティを見出すのが難しかった人の一人です。イエスは当時の社会的な規範や期待には従わず、しばしば「外れた」存在と見なされ、それゆえにイエスをなき者にしようとする人々によって、最終的には殺されてしまいます。しかし、だからこそ、当時の社会で「外れた」人と思われていた人々と、イエスは親しい関係を築くことができたのです。
クリスマスの物語を考えると、まさにこの「外れた」状態からスタートしていることに気づきます。結婚前に母マリアは妊娠し、姦淫の罪で石打ちの刑に処せられるかもしれないという命の危機に立たされます。そして、そのような「外れた」マリアを受け入れるかどうかで、「正しい」人であった父ヨセフは、大変な苦悩の中に置かれます。しかし、イエスの両親がこの「外れた」状態をあえて受け入れることから、クリスマスは、そしてキリスト教は立ち上がったのです。
以前、年末の炊き出し活動の際に、2歳の娘が「オカシドウゾ」とアメを配ったのを、集まったおじさんおばさんたちがどれほど喜んでくれたか。人々に「ホーム」を与えるのは、中心にいる人々の権力や富などではなく、そこから「外れた」小さい人の小さい力です。
私たち一人ひとりが、自身の本当の「ホーム」を探し求める旅人です。「外れた」ところからスタートした教会は、このクリスマスに改めて、すべての人に「ホーム」がある、帰る場所があるのだ、と強く語るべきだと思います。カパティランの働きは、それがこの社会の中で小さいものだと思われる時にこそ、まさにこの「ホーム」を差し出そうとする教会の働きになるのだと私は確信しています。
2023.12 TIMES NO.44
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